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三顧茅廬-三顧の禮です

 時(shí)間煮墨 2024-06-13 發(fā)布于安徽

諸葛亮的出山,在《三國(guó)志》上只有短短一行字:“先主遂詣亮,凡三往,乃見(jiàn)?!边@行文字被羅貫中演義為非常精彩的一個(gè)故事。而《魏略》和《九州春秋》則說(shuō),是諸葛亮主動(dòng)去見(jiàn)劉備的。那么,事情的真相究竟如何?三顧茅廬的故事為什么會(huì)被一再傳唱?

前文講到,歧路彷徨的劉備與諸葛亮相遇,從此峰回路轉(zhuǎn),事業(yè)蒸蒸日上。但問(wèn)題是,他們兩個(gè)究竟誰(shuí)先找誰(shuí)。是劉備禮賢下士,還是諸葛亮投懷送抱?關(guān)于這個(gè)問(wèn)題,歷史上有不同說(shuō)法?!段郝浴泛汀毒胖荽呵铩氛f(shuō),劉備來(lái)到荊州后,屯兵于樊城。建安十二年,曹操平定了北方,諸葛亮料定其下一個(gè)攻擊目標(biāo)必是荊州,而劉表“性緩,不曉軍事”,于是“北行見(jiàn)備”。劉備并不認(rèn)識(shí)諸葛亮(備與亮非舊),沒(méi)把這個(gè)年輕人放在眼里,只當(dāng)作一般士人接待(以其年少,以諸生意待之)。座談完了,眾人散去,只有諸葛亮留了下來(lái)。劉備也不問(wèn)他想說(shuō)什么,順手拿起一根牦牛尾巴編起工藝品來(lái)。諸葛亮便說(shuō),將軍的雄心壯志難道就是編牦牛尾巴嗎?劉備知道諸葛亮不是尋常人等了,就說(shuō)這是什么話!我不過(guò)“聊以忘憂”罷了。諸葛亮說(shuō),將軍度量一下,劉鎮(zhèn)南(指劉表)和曹公相比怎么樣?劉備說(shuō),比不上。諸葛亮又問(wèn),將軍自己呢?劉備說(shuō),也比不上。諸葛亮說(shuō),都比不上,難道就等著人家來(lái)宰割嗎?劉備說(shuō),我也發(fā)愁,那你說(shuō)怎么辦?諸葛亮就給他出了個(gè)主意,讓劉備建議劉表鼓勵(lì)游民自力更生,并登記在冊(cè),這樣就可以增加荊州的實(shí)力了。

孔明の出山は、『三國(guó)志』に「先主遂に亮に詣り、凡そ三往き、乃ち見(jiàn)たり」という一行しかありません。この文章は羅貫中によってとてもすばらしい物語(yǔ)に演義されました。一方、『魏略』や『九州春秋』は、孔明が劉備に會(huì)いに行ったとしています。では、事件の真相はどうなのでしょうか。三顧の禮の話はなぜ語(yǔ)り継がれているのでしょうか。

先にも述べたように、岐路をさまよっていた玄徳は、孔明と出會(huì)ったことで、一転して出世していきます。しかし問(wèn)題は、二人のどちらが先に探したかということです。玄徳の禮賢下士ですか、孔明の投懐ですか。この問(wèn)題については、歴史的に諸説があります?!何郝浴护洹壕胖荽呵铩护摔瑜毪取⑶G州に來(lái)た劉備は、樊城に兵を集めました。建安十二年、曹操が北方を平定すると、孔明は次の攻撃目標(biāo)は荊州になると見(jiàn)込んでいましたが、劉表は「性緩、軍事を知らず」、「北行見(jiàn)備」となりました。玄徳は孔明を知らないので(備も亮も舊いものではありません)、この若者を、ただの士人として遇していました。座談が終って、一同は散りましたが、孔明だけは、あとに殘っていました。玄徳は、何をいうともなく、ヤクの尾を手に取って、細(xì)工をしていました。孔明は、將軍の大志とは、ヤクの尾を作ることではありませんか、といった。玄徳は、孔明がただ者でないことを知って、何をいうのです!私はただ「憂いを忘れて」いるだけです。孔明は、將軍の度量を計(jì)って、劉鎮(zhèn)南(劉表のこと)を曹公と比べてはどうですか、といった。かなわない、と玄徳はいいました??酌鳏悉蓼?、將軍はどうですか、とたずねた。玄徳も、かなわないといっています??酌鳏想?yún)いました、かなわないのだから、誰(shuí)かに殺されるのを待っているのですか?玄徳は、わたくしも困っております、では、どうなさいますか、といった。そこで孔明は、玄徳に、遊民の自立を奨勵(lì)し、その名を登録して、荊州の力を増すよう、進(jìn)言しました。

這種說(shuō)法明顯地和諸葛亮《出師表》相異,因此裴松之認(rèn)為不實(shí)(非亮先詣備,明矣)。但他同時(shí)也表示不可理解。裴松之說(shuō):“雖聞見(jiàn)異辭,各生彼此,然乖背至是,亦良為可怪?!逼鋵?shí)這事并不可怪,道理馬上就要講到。事實(shí)上,《魏略》和《九州春秋》的說(shuō)法雖然是非主流觀點(diǎn),也并非沒(méi)有人支持。劉嘯先生的《“三顧茅廬”質(zhì)疑》就贊成此說(shuō)。劉嘯先生認(rèn)為,許多人只看到了劉備求賢若渴的一面,沒(méi)看到諸葛亮其實(shí)更需要?jiǎng)?。第一,諸葛亮是一定會(huì)要出山的,而劉備則是他最愿意選擇的老板。如果一定要等劉備三顧茅廬才肯出山,豈非等于說(shuō):“你劉備不來(lái)請(qǐng)我三次,我這輩子就在南陽(yáng)耕地算了?!边@是講不通的。第二,劉備雖然急需人才,但在遇到諸葛亮以前,他需要的是一群人,即一群“賢臣”,并不一定非得是誰(shuí)不可;而諸葛亮需要的卻是一個(gè)人,即一個(gè)“明君”,那就是劉備。諸葛亮的選擇余地更小,甚至別無(wú)選擇。第三,以諸葛亮之敏銳,他發(fā)現(xiàn)劉備應(yīng)該比劉備發(fā)現(xiàn)他早。既然機(jī)會(huì)對(duì)于他只有一次,他又豈肯在隆中坐等“三顧”?何況當(dāng)時(shí)形勢(shì)急如燃眉,哪里還有在隆中擺架子的時(shí)間?因此劉嘯先生說(shuō),三顧茅廬的邏輯結(jié)論“實(shí)在叫人難以接受”。

劉嘯先生的說(shuō)法并非沒(méi)有道理,但《出師表》的說(shuō)法也無(wú)法否定?!冻鰩煴怼罚赐ǔK^《前出師表》)為諸葛亮所作,是沒(méi)有問(wèn)題的。在這里,諸葛亮說(shuō)得很明白:“臣本布衣,躬耕于南陽(yáng),茍全性命于亂世,不求聞達(dá)于諸侯。先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顧臣于草廬之中,諮臣以當(dāng)世之事。由是感激,遂許先帝以驅(qū)馳。”這就再清楚也不過(guò)。第一,劉備確實(shí)親自到隆中找過(guò)諸葛亮,而且去了多次。第二,劉備到隆中找過(guò)諸葛亮,談?wù)摰氖恰爱?dāng)世之事”。第三,諸葛亮決定出山輔佐劉備,直接原因是劉備三顧茅廬?!坝墒恰焙汀八煸S”,意思明明白白。古人的自述當(dāng)然不可全信,但要說(shuō)諸葛亮憑空捏造一個(gè)“三顧茅廬”的故事,無(wú)論從諸葛亮的為人看,還是從當(dāng)時(shí)的實(shí)際情況看,恐怕都不可能。從他出山到上表,不過(guò)二十一年,許多當(dāng)事人都還健在,諸葛亮就會(huì)當(dāng)面撒謊?

その理由は、劉備の三顧の禮です?!赣墒恰工取杆煸S」は、意味がはっきりしています。昔の人の語(yǔ)ったことを鵜呑みにするわけにはいきませんが、孔明が「三顧の禮」を盡くして物語(yǔ)をでっち上げたというのは、その人物から見(jiàn)ても、當(dāng)時(shí)の狀況から見(jiàn)ても、まずありえません。彼が出てから上表まで、まだ二十一年、當(dāng)事者の多くが健在なのに、孔明は面と向かって噓をつくでしょうか。

所以,陳壽在為諸葛亮作傳的時(shí)候,不取“登門(mén)自薦”說(shuō),而取“三顧茅廬”說(shuō)。另外,陳壽在他的《上<諸葛亮集>表》中,也做了很清楚的描述。陳壽說(shuō):“左將軍劉備以亮有殊量,乃三顧亮于草廬之中。亮深謂備雄姿杰出,遂解帶寫(xiě)誠(chéng),厚相接納。”這就把前因后果說(shuō)得再清楚不過(guò)了。

但問(wèn)題是,這種說(shuō)法實(shí)在風(fēng)險(xiǎn)太大,讓人覺(jué)得這個(gè)事情簡(jiǎn)直就是“傳奇”,只怕真是“千年等一回”。我們要問(wèn),諸葛亮難道就算準(zhǔn)了劉備會(huì)“三顧茅廬”么?萬(wàn)一沒(méi)有,或者只顧了一顧呢?諸葛亮就從此終老隆中了么?再說(shuō)了,一個(gè)“每自比管仲、樂(lè)毅”的人,留在隆中干什么呢?建設(shè)“社會(huì)主義新農(nóng)村”么?

看來(lái),《魏略》和《九州春秋》的說(shuō)法,也是輕易否定不了的。而如果既要接受《魏略》和《九州春秋》,同時(shí)又不否定《出師表》和《三國(guó)志》,就只有一種可能,即兩種說(shuō)法都是事實(shí),而且“登門(mén)自薦”在前,“三顧茅廬”在后。也就是說(shuō),諸葛亮先去找劉備,劉備也接受了他的建議,但仍然沒(méi)有給予足夠的重視,于是諸葛亮就又回去了。等到劉備意識(shí)到諸葛亮的價(jià)值時(shí),只好親自出馬,三顧茅廬,重新把諸葛亮請(qǐng)了出來(lái)。正因?yàn)橛星懊娴哪莻€(gè)曲折,這才需要親自出馬,也才需要“三顧”而不是“一顧”。這可是歷史上不曾有過(guò)的說(shuō)法,但這個(gè)猜想是不是太大膽了一點(diǎn)呢?

だから、陳壽は孔明のために伝を書(shū)く時(shí)、「上門(mén)自薦」説を取らないで、「三顧の禮」説を取ります。また、陳壽の『諸葛亮集』表にも、はっきりと書(shū)いてあります。陳壽は、「左將軍劉備は、亮をもって殊量があり、草廬の中に三顧亮をもっています。亮深備雄姿傑出、遂に解帯寫(xiě)誠(chéng)、厚相受け入れます。」これがいきさつを説明しています。

しかし、この話はあまりにもリスクが大きすぎて、まるで「伝説」のように思われてしまいます?!盖辘艘欢取工猡筏欷蓼护蟆?酌鳏?、玄徳に「三顧の禮」を盡くすことを約束したのでしょうか?持っていなかったり、見(jiàn)過(guò)ごしていたりしたらどうでしょう?孔明は、もう死んでしまうのでしょうか。そもそも、「おのずから管仲、楽毅に比して」という人が、隆中に殘って何をするのでしょうか。「社會(huì)主義新農(nóng)村」を建設(shè)しますか?

このように、『魏略』や『九州春秋』の説も、簡(jiǎn)単には否定できません。もし、『魏略』と『九州春秋』を受け入れ、同時(shí)に『出師表』と『三國(guó)志』を否定しないとすれば、どちらも事実であり、しかも「自薦」が先で「三顧の禮」が後ということしか考えられません。つまり、孔明は先に玄徳のところへ行って、玄徳もそれを受けたのですが、それでも十分な注意を払ってくれなかったので、そのまま帰ってしまったのです。やがて孔明の価値に気がついた玄徳は、みずからみずから乗り出して、三顧の禮を盡くして、改めて孔明を招いたのです。その紆余曲折があったからこそ、自ら乗り出す必要があり、「一顧」ではなく「三顧」が必要だったのです。これまでになかった説ですが、ちょっと大膽すぎませんか?

其實(shí)這里面還有一個(gè)問(wèn)題,那就是從建安六年(公元201年)到建安十二年(公元207年),劉備在荊州待了六七年,他和諸葛亮為什么從來(lái)就沒(méi)見(jiàn)過(guò)面?要說(shuō)他們不認(rèn)識(shí),倒是事實(shí)。要說(shuō)他們不知名,就不對(duì)了。至少,劉備“天下梟雄”的名聲,諸葛亮應(yīng)該是知道的。如果劉嘯先生的觀點(diǎn)成立,那他為什么不早一點(diǎn)去找劉備,非得等到火燒眉毛才出山呢?反過(guò)來(lái)也一樣。就算諸葛亮沉得住氣,劉備也不該六年之后才發(fā)現(xiàn)諸葛亮這個(gè)一等一的人才呀?也有人說(shuō),劉備倒是早就知道諸葛亮了,先前也曾去了兩次,都沒(méi)見(jiàn)著,到建安十二年第三次去才見(jiàn)面。但這也不通。一年之間去了三次還說(shuō)得過(guò)去。六年之間才去三次,可能嗎?以劉備的進(jìn)取心和緊迫感,會(huì)這樣悠哉游哉地一拖幾年,一而再再而三地徒勞往返嗎?至于說(shuō)諸葛亮住得隱秘,不好找,就更加不通。劉備是何等人?他手下那么多爪牙,如果鐵了心要找一個(gè)人,哪有找不到的?再說(shuō)諸葛亮又不是隱姓埋名躲避仇家的什么神秘人物,他和荊州官場(chǎng),和荊州的士人集團(tuán)、上流社會(huì)是有來(lái)往的,怎么會(huì)找不到?

對(duì)此,尹韻公先生的解釋是:三顧茅廬之前,劉備雖然聽(tīng)說(shuō)過(guò)諸葛亮,但人們的評(píng)價(jià)不一致。雖然司馬徽、龐德公等人稱(chēng)他為“臥龍”,諸葛亮也“每自比管仲、樂(lè)毅”,但只有他那個(gè)小圈子里的人“謂為信然”,大多數(shù)人則不以為然(時(shí)人莫之許也),劉備有些吃不準(zhǔn)。徐庶推薦諸葛亮?xí)r,劉備就說(shuō)“君與俱來(lái)”,可見(jiàn)并未視若神明。這也不奇怪。劉表作為諸葛亮的“姨父”,都不把他當(dāng)回事,何況劉備?

実はこれには、建安六年(西暦二〇一年)から建安十二年(西暦二〇七年)まで六、七年間荊州にいた玄徳と孔明が、なぜ一度も會(huì)わなかったのかという問(wèn)題があります。知らないといえば事実です。名が知れていないといえば、違います。少なくとも、劉備の「天下の梟雄」の名聲は、孔明も知っていたはずです。もしも劉嘯の説が正しいとすれば、なぜ劉備のもとへ早く行かなかったのでしょうか。逆も同じです。たとえ孔明が落ちついていたとしても、玄徳が孔明という一級(jí)の人材を発見(jiàn)したのは、六年後のことではありませんか?玄徳は、かねて孔明のことを知っていて、前にも二度行って會(huì)わなかったが、建安十二年、三度目に會(huì)ったという人もあります。でもそれも通じません。一年の間に三回は行っていますが。六年のあいだに三回しか行けないなんて、可能でしょうか。玄徳の進(jìn)取心と緊迫感をもってすれば、このように悠々と何年かを曳いて、何度も何度も往復(fù)するだけの無(wú)駄があるでしょうか?孔明の居所が隠密で、さがしにくいというのは、ますます意味がわからない。劉備とは何者ですか?彼の手下にはあんなに多くの手先がいるのに,もし心を鬼にして一人捜そうとすれば,探し出せない者はいないでしょう。それに孔明は、名をかくして仇を避けるような人物ではありませんし、荊州の官界や、荊州の士人集団や上流社會(huì)と交流のある人物ですから、どうして見(jiàn)つからないのでしょう。

これについて尹韻公先生は、「三顧の禮を盡くす以前、玄徳は諸葛亮の話を聞いていたが、人々の評(píng)価は一致しなかった」と説明しています。司馬徽や龐徳公などは、彼を「臥龍」と呼び、孔明も、「おのずから管仲や楽毅に比して」と呼んでいましたが、彼の內(nèi)輪の者だけは、「これを信然と申す」と、多くの者はそうは思わず(時(shí)の人莫之許なり)、玄徳には、いささか當(dāng)っていませんでした。徐庶が諸葛亮をすすめると、玄徳は、「君と倶に來(lái)ます」と、神を見(jiàn)なかった。不思議ではありません。劉表は、孔明の「伯父」として、彼をないがしろにしているのに、まして劉備はどうでしょう。

諸葛亮心理上也有阻礙,那就是劉關(guān)張的關(guān)系太密切。據(jù)《三國(guó)志·關(guān)羽傳》,他們?nèi)恕皩媱t同床,恩若兄弟”,關(guān)系鐵得不能再鐵,根本容不得他人插足。也就是說(shuō),劉備那個(gè)集團(tuán),那個(gè)小圈子,排他性太強(qiáng),任何后來(lái)者都難以居其上;而諸葛亮的理想,卻是要做“首席執(zhí)行官”的。他是千里馬,不能先去拉磨盤(pán)。沒(méi)有十足的把握,他寧肯不出山。所以,劉備和諸葛亮都需要有一個(gè)觀察、了解和試探的過(guò)程。

這是有道理的。但我認(rèn)為還應(yīng)該注意一個(gè)問(wèn)題,就是年齡。要知道,劉備比諸葛亮整整大了二十歲,而諸葛亮出山時(shí)才二十六歲。讓一個(gè)四十六歲的人,對(duì)一個(gè)二十六歲的人表示心悅誠(chéng)服,已屬不易,你又怎么能要求他在四十一二歲或者四十三四歲的時(shí)候,去拜訪一個(gè)二十一二歲或者二十三四歲的人?可見(jiàn)這六年工夫是非等不可的。如果不是六年下來(lái),劉備已熬得快要心灰意冷,曹操又正好準(zhǔn)備南下,他們?cè)俚葞啄辏f(shuō)不定也有可能。

總之,等到諸葛亮已經(jīng)二十六歲,劉備也已經(jīng)四十六歲,雙方都深感時(shí)不我待時(shí),由于某種機(jī)緣,他們終于見(jiàn)面。司馬徽和徐庶的推薦也無(wú)疑至關(guān)重要。劉備曾向司馬徽請(qǐng)教時(shí)事,司馬徽說(shuō),要成就大業(yè),不能用書(shū)呆子。書(shū)呆子懂得什么時(shí)事?“識(shí)時(shí)務(wù)者在乎俊杰”,我們這里的俊杰就是臥龍和鳳雛。劉備問(wèn)他們是誰(shuí),司馬徽說(shuō)就是諸葛亮和龐統(tǒng)。

孔明の心理的な障害は、劉と張との関係があまりにも密接であったことです?!喝龂?guó)志』の関羽伝によれば、この三人は「寢れば同衾、恩にして兄弟の如し」で、他人が入り込むことは許されないほどの仲だったそうです。つまり、劉備のあの集団、あの小さい輪、排他性が強(qiáng)すぎて、いかなる後から來(lái)た人はすべてその上に居にくいです;孔明の理想は、「最高経営責(zé)任者」になることでした。彼は何の役にも立たない馬ですから,先に行ってひきひきをすることはできません。自信がないと、出てこないんです。だから、劉備も孔明も、観察し、理解し、探る過(guò)程が必要です。

これは一理あります。しかし、もう一つ気をつけなければならないことがあると思います。それは年齢です。何しろ、玄徳は孔明よりも二十歳も年上ですから、孔明はまだ二十六歳です。四十六歳の人が、二十六歳の人に心服するのは大変なことなのに、どうして四十一、二歳や二十三、四歳の時(shí)に、二十一、二十三、四歳の人を訪問(wèn)しろというのですか。六年間待たなければならなかったのです。もし六年でなければ、玄徳はすでに心を失いかけており、曹操はちょうど南下の準(zhǔn)備をしていますから、何年かは待っていたかもしれません。

いずれにせよ、孔明が二十六歳、玄徳が四十六歳になって、お互いに気を揉んでいるうちに、何かの縁で、ようやく會(huì)うことができました。司馬徽や徐庶の推挙も、重要であったことはまちがいありません。玄徳が司馬徽に時(shí)事をたずねますと、司馬徽は、大業(yè)をなすには、書(shū)物の蟲(chóng)を用いてはならぬといいました。本の蟲(chóng)にどんな時(shí)事が分かりますか?「時(shí)務(wù)を知る者は俊傑を気にかけます」、私達(dá)のここの俊傑は臥龍と鳳雛です。誰(shuí)ですか、と玄徳がたずねると、司馬徽は、孔明と龐統(tǒng)だと答えた。

徐庶的推薦則無(wú)疑更直接。徐庶對(duì)劉備說(shuō),諸葛孔明可是一條臥龍,將軍難道不想見(jiàn)他一見(jiàn)?徐庶是劉備器重信任的人(先主器之),他的話自然靠得住。劉備便說(shuō),那就請(qǐng)他和足下一起來(lái)吧!徐庶說(shuō),這個(gè)人是不可以隨便召喚的,將軍還是屈尊去拜訪他吧!

這里有一點(diǎn)需要說(shuō)明,就是我認(rèn)為司馬徽和徐庶的推薦,不能簡(jiǎn)單地看作他們的個(gè)人行為。我們知道,荊州是一個(gè)人才濟(jì)濟(jì)的地方。除了本土的人才,還有中原地區(qū)避難而來(lái)的士人。這些人關(guān)心國(guó)家大事,也關(guān)注荊州的安危。當(dāng)他們發(fā)現(xiàn)劉表不足依靠時(shí),勢(shì)必寄希望于號(hào)稱(chēng)“天下梟雄”的劉備。于是,一部分愿意效力的(比如徐庶),就開(kāi)始團(tuán)結(jié)在劉備周?chē)?,形成《三?guó)志·先主傳》所謂“荊州豪杰歸先主者日益多”的局面;而那些無(wú)意出山的(比如司馬徽),則會(huì)幫助劉備發(fā)現(xiàn)人才。所以,這應(yīng)該看作荊州士人集團(tuán)的集體推薦。

徐庶の推薦は、もっと直接的であったにちがいありません。徐庶は、玄徳に向って、諸葛孔明は臥龍の一人ですから、一度お目にかかりたくはありませんか、といった。徐庶は、玄徳の信頼の厚い人(先主器之)ですから、彼のことばは、自然、あてになります。玄徳は、では足下と一緒に來(lái)てもらいましょう、といった。徐庶は、この人は、むやみに呼んではいけませんから、お訪ねください、といった。

ここでひとつ申し上げておきますと、司馬徽や徐庶の推挙は、たんなる個(gè)人の行動(dòng)とは思えません。荊州は、人材の多い土地であることを知っています。本土の人材のほかに、中原から避難してきた士人もいました。彼らは國(guó)の大事を案じ、荊州の安否を案じています。劉表が頼りないとわかれば、「天下の梟雄」といわれる玄徳に期待をかけるでしょう。すると、一部の味方(徐庶など)が、玄徳の周?chē)欷思蓼辘悉袱?、「荊州の豪傑、先主に帰する者益々多き」と、『三國(guó)志』先主伝にあるようになりました。また、司馬徽のように、山を出る気のない者が、玄徳の人材を見(jiàn)つけてくれます。ですから、これは荊州の士人集団の推薦と見(jiàn)るべきでしょう。

也是劉備福至心靈了。不管他出于什么原因,求賢若渴也好,信任徐庶也好,病急亂投醫(yī)也好,總之,劉備做出了一個(gè)正確的決定。他決定放下皇族和長(zhǎng)輩的架子,親自去拜訪那個(gè)比自己小了二十歲,又沒(méi)有什么職務(wù)頭銜的年輕人。拜訪之前,諸葛亮是否找過(guò)劉備,我們已無(wú)法確知。在我的“假說(shuō)”成立之前,我們只能說(shuō),三顧茅廬可以肯定,登門(mén)自薦暫且存疑?,F(xiàn)在的問(wèn)題是,劉備三顧茅廬,是見(jiàn)到三次,還是只見(jiàn)到一次?

有學(xué)者(比如尹韻公先生)認(rèn)為是見(jiàn)了三次,談了三次。這是有可能的。諸葛亮的《出師表》和陳壽的《上<諸葛亮集>表》,一則說(shuō)“三顧臣于草廬之中”,一則說(shuō)“乃三顧亮于草廬之中”,都是這個(gè)意思。至于《諸葛亮傳》說(shuō)“凡三往,乃見(jiàn)”,也不是去了三次才見(jiàn)到。這個(gè)“乃”,和“乃三顧亮于草廬之中” 的“乃”一樣,是“于是”、“就”的意思。因此,“凡三往,乃見(jiàn)”應(yīng)該翻譯為:一共去了三次,就見(jiàn)面了。

如果這樣說(shuō)還不明確,那么唐人的理解或許可以參考。杜甫說(shuō)“三顧頻煩天下計(jì)”,周汝昌先生解釋“頻煩”就是“屢屢、幾次”,還特別說(shuō)“不是頻頻煩請(qǐng)”。當(dāng)然不是。因?yàn)槿櫟摹邦櫋?,并非“聘?qǐng)”,而應(yīng)理解為“咨詢(xún)”、“顧問(wèn)”。甚至“三顧”也不一定就是實(shí)指,即只去了三次,也可以理解為多次,即“再三”、“頻繁”的意思。也就是說(shuō),劉備多次光顧隆中,向諸葛亮請(qǐng)教“當(dāng)世之事”,兩人越談越攏,越談越投機(jī),于是諸葛亮決定出山輔佐劉備。是啊,這兩個(gè)人的合作是何等重要,哪里能只談一次就拍板的呢?

玄徳のご福心もまた格別です。どのような理由があろうと、賢さを求めていようと、徐庶を信じていようと、病を得て醫(yī)者にかかっていようと、玄徳の下した決斷は、一つ正しいものでした。皇族や先輩という體裁を捨てて、二十歳も年下の肩書(shū)きもない若者を訪ねることにしたのです。その前に、孔明が玄徳をさがしていたかどうか、私たちにはわかりません。私の「仮説」が成り立つまでは、三顧の禮ならともかく、自薦は疑問(wèn)としか言いようがありません。問(wèn)題は、劉備は三顧の禮を盡くして、三度會(huì)ったか、一度しか會(huì)ったことがないか、です。

學(xué)者(たとえば尹韻公先生)は三回會(huì)って三回話したと言っています??赡苄预悉ⅳ辘蓼埂VT葛亮の『出師表』や陳壽の『諸葛亮集』表には、「三顧の臣は草廬の中にあり」とあり、「乃ち三顧の亮は草廬の中にあり」とありますが、これは同じ意味です?!褐T葛亮伝』には、「凡そ三往き、乃ち見(jiàn)る」とありますが、三度行って見(jiàn)たわけではありません。この「乃」は、「三顧の禮を盡くして草廬に立つ」の「乃」と同じで、「そこで」「すぐ」という意味です。ですから、「凡三往、乃見(jiàn)」は、「三回行って、會(huì)いました」と訳すべきです。

まだはっきりしないのであれば、唐人の理解が參考になるかもしれません。杜甫は「三顧頻煩天下計(jì)」といい、周汝昌先生は「頻煩」を「しばしば、何度」といい、とくに「頻々煩請(qǐng)ではない」といいます。そんなことはありません。なぜなら、三顧の「顧」は、「招聘」ではなく、「諮問(wèn)」「顧問(wèn)」と考えるべきだからです。さらに、「三顧」は、必ずしも「三回行った」とは限らず、「何度も行った」という意味にもなります。「再三」「頻繁」という意味です。つまり、玄徳は、隆中をたびたび訪れて、孔明に「當(dāng)世の事」をたずね、話が合うにつれて、いよいよ玄徳の補(bǔ)佐になることになったのです。そうですよね、この二人の協(xié)力がどれほど大切なものか、一回話し合っただけで決裁できるものでしょうか。

所以,《三國(guó)演義》之“劉玄德三顧草廬”就是地地道道的演義了。其實(shí),即便所謂“凡三往,乃見(jiàn)”是去了三次才見(jiàn)到,羅貫中編的故事也是演義。不過(guò)這個(gè)演義實(shí)在精彩,也很有意思。劉備第一次去,羅貫中為他安排的節(jié)目,是先聽(tīng)歌,再看山,再碰釘子,再觀景,再見(jiàn)崔州平。山是“清景異常”,景是“觀之不已”,人是“容貌軒昂”,而且不同尋常:童子不懂事,農(nóng)民會(huì)唱歌,朋友滿腹經(jīng)綸。這一番看得劉備是目瞪口呆大開(kāi)眼界贊嘆不已,只覺(jué)得隆中這地方真是神秘莫測(cè),那臥龍崗上藏著的必是高人。

第二次去,就沒(méi)有必要再看景了,只看人。先見(jiàn)其友,次見(jiàn)其弟,再見(jiàn)其岳父。如果說(shuō)上一次只是讓劉備開(kāi)了眼界,那么,這一次就讓劉備更加按捺不住。你想,諸葛亮的朋友、弟弟、岳父都如此地超凡脫俗,諸葛亮本人還不了得嗎?

所以第三次劉備就要擇吉齋戒,沐浴更衣了。而且,離草廬半里,就要下馬步行;到草堂之外,就要拱立階下;諸葛亮高臥不起,他就要一等再等了。那心情,已不像一個(gè)禮賢下士的招聘者,倒像是上門(mén)求婚的癡情人。

ですので、『三國(guó)志演義』の「劉玄徳の三顧草廬」は正真正銘の演義です?!阜踩?、乃見(jiàn)」とは三度行って見(jiàn)たものであっても、羅貫中が作った物語(yǔ)は演義です。でもこの演義は本當(dāng)にすばらしくて面白いです。劉備がはじめて行ったとき、羅貫中が彼のために用意したプログラムは、まず歌を聴いて、次に山を見(jiàn)て、次に釘に當(dāng)たって、次に景色を眺めて、崔州平に會(huì)うことでした。山は「清景異?!工?、景は「見(jiàn)てやまない」で、人は「容貌軒昂」で、しかも尋常ではありません:童子は物心がつかなくて、農(nóng)民は歌を歌って、友達(dá)は腹経綸がいっぱいです。玄徳は目を見(jiàn)開(kāi)いて感嘆したが、隆中というところは得體の知れない場(chǎng)所で、その臥龍の岡の上には、やはり高士がかくれているにちがいありません。

2回目に行って、景色を見(jiàn)る必要はありませんて、ただ人を見(jiàn)ます。まずその友に會(huì)い、次にその弟に會(huì)い、またその舅に會(huì)います。前回は、玄徳の視野を広くしてくれただけといえば、今度はなおさら、玄徳の視野を広くしてくれました。孔明の友人、弟、細(xì)君の父などは、かくも人離れしているのに、孔明自身は大したものではありませんか。

だから三度目には、玄徳は、吉を選んで、斎戒し、沐浴して、著替えをしなければなりません。そして、草廬から半里も離れたところで、馬をおりて歩かなければなりません。草堂の外に出て、すぐ拱立階の下に立ちます;孔明は、寢そべっていますから、もうしばらく待っていなければなりません。その気持ちは、下士を探す人ではなく、求婚に來(lái)た人のようでした。

實(shí)際上劉備初入隆中,剛剛聽(tīng)了歌,看了山,便已肅然起敬。因此當(dāng)他“親叩柴門(mén)”與童子對(duì)話時(shí),便有了些《西廂記》里面張生見(jiàn)紅娘的味道。張生見(jiàn)紅娘時(shí)是怎么說(shuō)的?“小生姓張,名珙,字君瑞,本貫西洛人也,年二十三歲,正月十七日子時(shí)建生,并不曾娶妻?!苯Y(jié)果被紅娘搶白:“卻是誰(shuí)問(wèn)他來(lái)?”劉備怎么說(shuō)?“漢左將軍宜城亭侯領(lǐng)豫州牧皇叔劉備特來(lái)拜見(jiàn)先生?!苯Y(jié)果也碰釘子:“我記不得許多名字?!眱蓚€(gè)場(chǎng)景,豈非神似?

當(dāng)然相似的。如果說(shuō)戲劇中的崔鶯鶯是“待字閨中”,那么,小說(shuō)中的諸葛亮就是“待價(jià)隆中”。他們都是心氣極高的人,決不肯隨隨便便就“以身相許”。所以,他們都必須擺足了架子,做足了文章,吊足了胃口,以保證對(duì)方的誠(chéng)意禁得住考驗(yàn)。

実は玄徳は初めて隆中に入ったばかりで、歌を聞き、山を見(jiàn)て、粛然としていました。そのため彼の「親が柴門(mén)を叩いて」童子と対話する時(shí)、少しの『西廂記』の中の張生見(jiàn)の紅嬢の味があります。張さんは紅嬢に會(huì)った時(shí)、何と言いましたか?!感∩闲栅蠌?、名は君瑞、本貫は西洛の人で、二十三歳、正月十七日子時(shí)建生、妻をもったことはありません?!埂刚l(shuí)が尋ねてきたんですか?」劉備は何とおっしゃいましたか。「漢左將軍宜城亭侯領(lǐng)予州牧皇叔劉備特が、先生に拝謁に參りました」「名前をたくさん覚えていない」という失敗もありました。二つの場(chǎng)面、似ているじゃありませんか。

もちろん似ています。もし演劇の中の崔鶯鶯が「待字閨中」ならば、小説の中の諸葛亮は「待価隆中」です。彼らは非常に気心の高い人で、簡(jiǎn)単に「體を許す」ということはしません。そのためには、相手の誠(chéng)意が試されるに耐えられるように、威張って、文章を書(shū)き、食欲をそぐ必要があります。

另一方的情況則略有不同。張君瑞對(duì)崔鶯鶯,自然是一見(jiàn)鐘情;劉玄德對(duì)諸葛亮呢,按照羅貫中的說(shuō)法,也是相見(jiàn)恨晚。劉備怎么就那么想見(jiàn)諸葛亮呢?因?yàn)椤八R先生”已經(jīng)讓他意識(shí)到,自己遲遲不能成功的原因,是缺少一個(gè)可以運(yùn)籌帷幄總攬全局的智囊型人物,一個(gè)當(dāng)代的姜尚和張良。好不容易有了一個(gè)徐庶,又走了。其實(shí),徐庶離開(kāi)劉備,是在諸葛亮已經(jīng)出山之后?!度龂?guó)志》的記載很清楚,諸葛亮出山以后,曹操南征,劉琮投降,劉備“率其眾南行,亮與徐庶并從,為曹公所追破,獲庶母”,《三國(guó)演義》改成了“元直走馬薦諸葛”。這一改,就改出問(wèn)題來(lái)了。請(qǐng)問(wèn),徐庶既然知道諸葛亮是經(jīng)天緯地的政治天才,為什么早不推薦,非得要等自己走了才說(shuō)?這豈非等于說(shuō)徐庶害怕諸葛亮搶了自己的地位和風(fēng)頭嗎?羅貫中顯然也想到了這一點(diǎn),便安排徐庶在推薦了諸葛亮之后,又特地去做說(shuō)服動(dòng)員工作,結(jié)果被諸葛亮臭罵一通。也就是說(shuō),徐庶之所以早不推薦,是因?yàn)樗乐T葛亮不肯出山。但這樣一來(lái)諸葛亮的道德品質(zhì)就成問(wèn)題了。一個(gè)“每自比管仲、樂(lè)毅”的人,偏說(shuō)徐庶的推薦是把自己當(dāng)替罪羊、犧牲品,還要勃然變色,這也未免太矯情了吧!羅貫中想幫諸葛亮抬價(jià),結(jié)果卻是給他的臉上抹黑。這和“狀諸葛之多智而近妖”一樣,都是弄巧成拙適得其反。

一方は少し違います。張君瑞は崔のウグイスに対して、自然は一目惚れです;劉玄徳は、孔明についても、羅貫中の言によると、相見(jiàn)て遅しを恨んだといいます。玄徳はどうして孔明に會(huì)いたがっているのでしょう。「水鏡先生」はすでに彼に意識(shí)させて、自分が遅々として成功できない原因、欠けているのは1人で畫(huà)策して全局を総攬する智嚢型人物、1人の當(dāng)代の姜尚と張良です。ようやく一人の徐庶を得て、また行ってしまいました。実は、徐庶が玄徳を去ったのは、孔明がすでに山を出てからでした?!喝龂?guó)志』では、諸葛亮が出た後、曹操が南征し、劉琮が降伏すると、劉備は「その衆(zhòng)を率いて南行し、亮と徐庶は従い、曹公に追われ、庶母を得た」とありますが、『三國(guó)志演義』では「元直走馬薦諸葛」となっています。これを直したら、問(wèn)題が出てきました。あの、徐庶は、孔明が天と地を経た政治の天才であることを知っていながら、なぜ、自分の去るのを待って、早くすすめなかったのですか?徐庶は、孔明に自分の地位と風(fēng)頭を奪われるのを怖れているのではありませんか。羅貫中も、それを考えていたらしく、徐庶に、孔明を推挙した上で、わざわざ説き伏せようとしたので、孔明に叱られてしまいました。つまり、徐庶之がすすめなかったのは、孔明が出てこないことを知っていたからです。しかし、それでは孔明の道徳性が問(wèn)題になります。「おのれは、管仲、楽毅に比します」という人が、徐庶の推薦を、自分を犠牲にしているのだと、逆上しているのは、あまりにもきざではありませんか。羅貫中は、孔明の肩を持とうとして、かえって彼の顔に泥を塗ってしまいました。これは「諸葛の多智に狀して妖に近い」と同じで、巧拙裏目に出ます。

前面講的那個(gè)故事也如此。盡管羅貫中說(shuō)得天衣無(wú)縫,實(shí)際上處處露出馬腳,讓人一眼就看出劉備在隆中的那些奇遇和巧遇,其實(shí)都是諸葛亮的刻意安排。什么會(huì)唱歌的農(nóng)民,不懂事的童子,滿腹經(jīng)綸的朋友,道貌岸然的丈人,都是諸葛亮的“托兒”。其目的,就是要把買(mǎi)方市場(chǎng)變成賣(mài)方市場(chǎng),讓劉備出大價(jià)錢(qián)把自己買(mǎi)斷。

所以,《三國(guó)演義》里面這個(gè)“三顧茅廬”的故事,完全可以看作三國(guó)版的營(yíng)銷(xiāo)學(xué)教材。在這個(gè)故事里,劉備好比投資方,他要買(mǎi)斷諸葛亮,又不知道貨色如何。這倒也是商家的正常心理,但于劉備為尤,因?yàn)椤度龂?guó)演義》里面劉備這家公司的資本,是他打著“皇叔”的招牌忽悠來(lái)的;而他這個(gè)“皇叔”身份雖非假冒偽劣,卻也含金量不高,有點(diǎn)“注水豬肉”的意思。因此劉備就會(huì)想,我這個(gè)“皇叔”是注水豬肉,諸葛亮那個(gè)“管仲”、“樂(lè)毅”就貨真價(jià)實(shí)?我劉備可以忽悠天下,諸葛亮就不會(huì)忽悠我?這就要探個(gè)虛實(shí)。所以,他聽(tīng)了徐庶的推薦后,并沒(méi)有像老祖宗劉邦那樣沖動(dòng)。劉邦聽(tīng)了蕭何的推薦,立即就拜韓信為大將軍,劉備卻得先看看再說(shuō)(當(dāng)然他手上的官帽也不多)。所以他的三顧茅廬,表面上看是禮賢下士,實(shí)際上是實(shí)地考察。劉備這點(diǎn)小心眼,以諸葛亮之聰明,哪里會(huì)看不清?便給他來(lái)了個(gè)欲擒故縱曲徑通幽。這就是我對(duì)“羅貫中版”之“三顧茅廬”的理解。

先ほどの話もそうです。羅貫中は、天衣無(wú)縫に雲(yún)いましたが、その実、端々に馬腳が現(xiàn)われていて、隆中での玄徳の奇遇や偶然の出會(huì)いが、実は孔明の意図であったことが、一目でわかるのです。歌のできる農(nóng)民、物心のつかない童子、経綸のある友人、禮儀正しい舅、すべて孔明の「託児」です。その目的は、買(mǎi)い手市場(chǎng)を売り手市場(chǎng)に変えて、玄徳に大金を出して自分を買(mǎi)い取ってもらうことでした。

ですから、『三國(guó)志演義』のこの「三顧の禮」の話は、まさに三國(guó)志版マーケティングの教材といえるでしょう。この物語(yǔ)では、玄徳は投資者のようなものですから、孔明を買(mǎi)い取るというのは、どうでしょう。これも商人の正常な心理ですが、劉備にとっては特に、『三國(guó)志演義』の中の劉備という會(huì)社の資本は、彼が「皇叔」という看板を掲げてぶらついてきたからです。彼のこの「皇叔」の身分は偽者ではありませんが、金の含有率も高くなくて、少し「豚肉を注入します」の意味。そこで玄徳は、この「皇叔」は水豬肉で、孔明の「管仲」や「楽毅」は本物ではないかと考えたのです。玄徳は天下を欺きますが、孔明は私を欺きませんか。そこは探りを入れます。だから、彼は徐庶の推薦を聞いた後で、祖先の劉邦のような沖働はありませんでした。劉邦は蕭何の推薦を聞いて、すぐ韓信を大將軍に拝謁しましたが、劉備はまずそれを見(jiàn)なければなりませんでした(もちろん彼の手の官帽も多くありませんでした)。だから彼の三顧の禮は、表向きは禮賢下士ですが、実際は実地調(diào)査です。玄徳のこの小賢しさ、孔明の聡明さでは、どこが見(jiàn)えませんか?それで、彼には、何も知らずに、うろうろしていました。これが「羅貫中版」の「三顧の禮」という考え方です。

當(dāng)然未免有點(diǎn)“以小人之心度君子之腹”。它只是我的一點(diǎn)“個(gè)人意見(jiàn)”,連“時(shí)代意見(jiàn)”都算不上,更非“歷史意見(jiàn)”,也不會(huì)是羅貫中的意見(jiàn)。那么,羅貫中為什么要這樣寫(xiě)呢?我想原因之一是為了好看??催^(guò)《三國(guó)演義》的人,不管相信不相信,都承認(rèn)這故事實(shí)在精彩。另一個(gè)原因,則可能是寄托了羅貫中自己的人生理想。羅貫中是元末明初人,據(jù)說(shuō)曾經(jīng)當(dāng)過(guò)義軍領(lǐng)袖張士誠(chéng)的幕僚。明代王圻的《稗史匯編》說(shuō)他“有志圖王”,只不過(guò)壯志未酬而已。因此,他在寫(xiě)作《三國(guó)演義》時(shí),難免會(huì)借古人之杯酒,澆心中之塊壘,把自己的理想抱負(fù)投射到人物身上。其實(shí),像他這樣的古代讀書(shū)人,是差不多都有“諸葛亮情結(jié)”的。他們敬佩諸葛亮的才智,仰慕他的人品,感動(dòng)他“鞠躬盡瘁,死而后已”,嘆息他“出師未捷身先死”。他們和諸葛亮之間,幾乎處處都有共鳴。

問(wèn)題是,歷史上和諸葛亮一樣具有這些優(yōu)秀品質(zhì)的人并不在少數(shù),成為讀書(shū)人精神偶像的也還有一些,為什么諸葛亮最受崇拜呢?原因之一,我認(rèn)為就在“三顧茅廬”。中國(guó)古代的讀書(shū)人有一種矛盾心理。一方面,他們希望出將入相,建功立業(yè),至少也得謀個(gè)一官半職,以便光宗耀祖。另一方面,他們又很清高,很脆弱,碰不得釘子,受不了冷遇。沒(méi)錯(cuò),“男兒本自重橫行”,但那也得“天子非常賜顏色”呀!最好是那機(jī)會(huì),那職務(wù),那烏紗帽不用自己去求,去考,是人主恭恭敬敬給你送來(lái),八抬轎子請(qǐng)你出山。諸葛亮享受的就是這種待遇。他就是劉備“請(qǐng)”出山的,還請(qǐng)了三回,實(shí)實(shí)在在給足了面子。

いささか「小人の心をもって君子の腹を計(jì)る」のではないでしょうか。それは私の「?jìng)€(gè)人の意見(jiàn)」にすぎません。「時(shí)代の意見(jiàn)」ですらありません。「歴史の意見(jiàn)」でもありません。羅貫中の意見(jiàn)でもありません。では、羅貫中はなぜこのように書(shū)いたのでしょうか。理由の一つは、見(jiàn)栄えのためだと思います?!喝龂?guó)志演義』を読んだ人は、信じても信じなくても、この話が本當(dāng)に素晴らしいと認(rèn)めます。もう一つの理由は、羅貫中の自分の人生の理想を託したからかもしれません。羅貫中は元末明初の人で、義軍の首領(lǐng)張士誠(chéng)の幕僚だったそうです。明代の王圻の『稗史彙編』には「志を持って王を図しようとした」とあるが、志にはまだ未踏に過(guò)ぎない。そのため、彼は『三國(guó)志演義』を書(shū)く時(shí)、どうしても古人の杯を借りて、心の塊に酒を注いで、自分の理想抱負(fù)を人物に投影します。実は、彼のような古代の読書(shū)人は、たいてい孔明コンプレックスを持っているのです??酌鳏尾乓櫎司捶?、その人柄を慕い、「盡して盡し盡し、死し盡し盡し」と感動(dòng)し、「出師せずして先に死んだ」と嘆息していました。孔明との間には、ほとんどどこからともなく共感がありました。

問(wèn)題は、歴史上、諸葛亮と同じような優(yōu)秀な品性を持った人が少なくなく、読書(shū)人の精神的偶像になった人もいますが、なぜ諸葛亮は最も崇拝されるのでしょうか?その理由の一つは、「三顧の禮」にあると思います。古代中國(guó)の読書(shū)人には矛盾した心理がありました。その一方では、自分の手柄を立てるためにも、せめて官職を得て、偉くなりたいと思っています。その一方で、彼らはとても高潔で、とても脆くて、釘に觸れることができなくて、冷遇に耐えられません。そう、「男児は自重橫行すべし」ですが、それは「天子より色を賜るべし」でもあります。最も良いのはあの機(jī)會(huì)で、あの職務(wù)、あの帽子は自分で求めなくて、試験に行って、人の主が恭しくあなたに送ってくるので、8つの駕籠を擔(dān)いであなたに山を出てもらいます??酌鳏稀ⅳ饯ΔいΥ訾蚴埭堡皮い郡韦扦?。彼は玄徳の「招き」で、三度も招いて、実に面目を立てました。

這就太讓人羨慕了,也太讓人向往了,因此必須大書(shū)特書(shū)。讀書(shū)人是沒(méi)有什么權(quán)力的,能夠有的也就是“話語(yǔ)權(quán)”。那還不把文章做足?“羅貫中版”之“三顧茅廬”就這樣誕生了。但可惜,這是羅貫中的諸葛亮,未必是真實(shí)的諸葛亮。

其實(shí),劉備和諸葛亮的君臣際遇,是劉備“三顧茅廬”,還是諸葛亮“登門(mén)自薦”,以及劉備是否去了三次,見(jiàn)了三次,談了三次,都不重要,重要的是他們談了什么。無(wú)疑,如果他們真的談了多次,我們現(xiàn)在是不可能完全和準(zhǔn)確地知道其內(nèi)容了。我們所能知道的,是結(jié)論性的意見(jiàn),這就是著名的《隆中對(duì)》。諸葛亮的政治天才,在這里表現(xiàn)得淋漓盡致。兩個(gè)人之間的對(duì)話,也充滿張力,其戲劇性決不亞于羅貫中的“劉玄德三顧草廬”。

更有意思的是,早在建安五年(公元200年),也就是劉備和諸葛亮相見(jiàn)的七年前,就有人為孫權(quán)做了類(lèi)似的戰(zhàn)略規(guī)劃,堪稱(chēng)“孫權(quán)版”或者“東吳版”的《隆中對(duì)》。這個(gè)人和諸葛亮一樣,也預(yù)見(jiàn)到了“天下三分”的結(jié)果?;蛘哒f(shuō),也制定了“三分天下”的戰(zhàn)略目標(biāo)。那么,這個(gè)人是誰(shuí)?他那個(gè)“孫權(quán)版”或者說(shuō)“東吳版”的《隆中對(duì)》,和諸葛亮的《隆中對(duì)》又有什么異曲同工之妙呢?

それはあまりにもうらやましいし、憧れるので、特筆しなければなりません。読書(shū)人には権力というものはありませんが、持っているのは「発言権」です。じゃあまだ文章を十分に作らないのですか?こうして「羅貫中版」の「三顧の禮」が生まれたのです。しかし殘念ながら、これは羅貫中の諸葛亮であって、必ずしも真実の諸葛亮ではありません。

実際には、劉備と諸葛亮の君臣の出會(huì)いは、劉備の「三顧の禮」なのか、孔明の「訪問(wèn)」なのか、そして劉備が三回行ったかどうか、三回會(huì)ったかどうか、三回話したかどうかは重要ではありません。もちろん、彼らが本當(dāng)に何度も話していたら、その內(nèi)容を完全かつ正確に知ることは不可能でした。私たちが知ることができるのは、結(jié)論的な意見(jiàn)で、これは有名な「隆中対」です??酌鳏握蔚奶觳扭稀ⅳ长长擞啶工趣长恧胜F(xiàn)れています。二人の間の會(huì)話も、緊張に満ちていて、その劇的さは羅貫中の「劉玄徳の三顧草廬」に負(fù)けません。

さらに興味深いのは、劉備と諸葛亮が會(huì)う七年前の建安五年(西暦二〇〇年)に、孫権のために似たような戦略が書(shū)かれた、いわゆる「孫権版」「呉版」の『隆中対』です。この人も孔明と同様、「天下三分」の結(jié)果を予見(jiàn)していました。あるいは、「天下を三分する」という戦略目標(biāo)も立てました。さて、この人は誰(shuí)ですか?彼の「孫権版」あるいは「呉國(guó)版」の「隆中対」は、諸葛亮の「隆中対」とどのような異同の妙がありますか?

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